はじめに
普段、インターネットやSNSを見ているとよく何かに関する批判や悪口が見受けられる。
ネットで本の名前を入れたら検索候補に『~ つまらない』などの候補が出てきてしまう。
候補として出るということはたくさん検索されてたくさん投稿されているということだ。
ここではっきりさせておくと、僕は事実や情報に対する批判ならばたいして問題はないと考えている。
違う視点から物事を見て相違点を見つけたりなどして間違いを正したり、情報に新たな価値を与えることで事実や情報はより強固なものとなる。
批判と批判の応酬で発展する知識も存在する。
しかし、文化や芸術作品に対してならば話が大きく変わる。
文化や芸術作品の批判を人の目につくところ(sns)でだすべきではない
僕は『文化や芸術作品の批判を人の目につくところ(sns)でだすべきではない』と考えている。
snsやネットに書くだけでなく、日常生活でも話題にしない方がよいと考えている。
なぜ文化や芸術作品の批判をSNSでするべきではないのか
大きく分けて2つの理由がある。
1つ目は文化や芸術をその人が好むのか否かはその人の経験によるからだ。
考えてみてほしい。
自分がなぜそのゲームがすきなのか。その小説が好きなのか。その音楽が好きなのか。そのスポーツが好きなのか。
『兄弟が好きで自分もやったらおもしろくてはまっちゃった。』や『友達に誘われていつのまにか趣味になっていた』、『ドラマで見て実際に自分でやってみたら面白かった。』など自分の経験が元になっているのではないか。
リズムゲームが好きな人もいれば、リズムゲームが楽しめずスマブラしかしない男もいるだろう。
何が好きなのかはその人の経験に規定される。
だから、文化や芸術作品に対しての批判は自分との経験に合わないことを主張しているに過ぎない。
が、その批判で傷つく人がいる。
それが2つ目の理由だ。
批判を見ることで嬉しくなる人はいないが、傷ついたりいやな気持になる人はいる。
自分が好きなものを批判されたらイライラしたりしょんぼりしてしまう。
なぜ文化や芸術作品の批判をSNSでする人が存在するのか
ここからが本題だ。(前置きは終わった。)
なぜ文化や芸術作品の批判をSNSで行うひとがいるのか心理学的に考えてみる。
まず、オンライン脱抑制効果というものがある。
インターネット上では匿名性、共感の難しさ(表情が見えない)、やり取りのタイムラグなどにより、コミュニケーションにおいて抑制が効かなくなってしまうことが知られている。
ここでのみそはオンライン上では本音を語りやすくなってしまうということだ。
普段の生活ではしないような『悪口』を平然と言ってしまう。
『つまらない』と思ったら『つまらない』と言ってしまえるのがインターネット空間だ。
2つ目はネガティブバイアスだ。
狩猟時代の話をすれば理解できる。
『あそこにリンゴの木があったよ』というポジティブな情報より、『あの森で虎と出くわして一人けがしたよ』というネガティブな情報のほうが生き残るために価値がある。
だから私たちはネガティブな情報にポジティブな情報より強く反応するのだ。
その甲斐あってかネガティブな情報は記憶に残りやすく、ネガティブな情報は拡散されやすい。
拡散されやすいということはたくさんの人の目につきやすいということだ。
たくさんの人の目につけば承認欲求を満たすことができる。
それが3つ目の理由だ。
インターネット上で批判コメントを書く人の中には『他の人に見てもらって自らの承認欲求を満たしてやろう』という魂胆のやつもいるのだろう。
4つ目は損失回避の傾向だ。
我々は何かを得ることよりも同等のものを失うことに対して強く反応する。
1000円を失う心理的負担と2000円ゲットする心理的喜びは同じぐらいだという話もある。
だから文化や芸術作品に触れた時に『面白かった。いい時間過ごせた』と思った時よりも『つまらなかった。時間返せ。』と思った時のほうが、行動に移す可能性(前者なら賞賛、後者なら批判)が高まる。
つまり、損失回避の傾向より、批判のほうが称賛より行動する動機が強くなるのだ。
その結果、批判のほうが賞賛より世に出やすくなってしまう。
インターネット上にある批判と称賛の比は実際の批判と称賛の比と比べて、批判の割合が高まってしまう。
その結果、批判をしている人が多くいるに思えてしまう。
錯覚が生まれてしまうのだ。
そして、社会的証明の原理が働く。
社会的証明の原理とは『多くの人が行っていることが正しい行動だと無意識のうちに考えてしまう現象』である。
社会的証明の原理により、その文化や芸術作品を楽しめている人がインターネット上で多くの批判を目にすることで『批判が多数派であり、賞賛している自分は少数派なのではないか』と考えるようになってしまう。
その結果、発言を控えるようになったり、(錯覚の)周りの人と自分の感性が違うことから、自分の感性を疑うようになり、心の底から文化や芸術作品を楽しめなくなっていまう可能性がある。
考えられる反論
我が国JAPANには『言論の自由』という原理がある。
第二十一条
- 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
- 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
『言論の自由があるのだから、自分の言葉を誰かに縛られる義理はない。』という言い訳を裏にインターネット上で批判行為をする人もいるのだろう。
しかし、日本では『公共の福祉』も同時に認められている。
他人に迷惑をかけるような自由は制限されるのだ。
また、批判者の中には『価値がないものを価値がないと伝えることにより、必要とされない文化を廃れさせられる』という、いわば親切心から(有難迷惑とはこのことだ)批判をしている者もいるのかもしれない。
だが心配ご無用。
多くの人に好まれない文化や芸術作品はいずれ廃れる。
需要と供給と原理により、需要がないものの価値は心配しなくても次第に下がる。
自然に淘汰されるから気にする必要などないのだ。
最後に
僕は文化や芸術作品の批判を人に言う必要はないと思っている。
その思いは変わらない。
が、例外もある。
批判というか悪口にはじつは使い方もある。(馬鹿と鋏は使いようである。)
居酒屋を想像してほしい。
気心(今の今まで”きしん”と読んでいた)の知れた友人2人と焼きとりを嗜んでいる中、一人の友人が『トイレ』と言って席を立った。残った二人でトイレに行ったやつの話になり、そいつの共通して感じている悪いところを話していたら盛り上がってしまい、そいつが戻ってきたときに何の話か聞かれて答えに困る。
似たような状況に出くわしたことが多くの人にあると思われる。
この、『共通して感じている特定の人物や物事に対する悪いところ』の話は盛り上がるし、実際に親密度が上がるという話もある。
何が言いたいのかというと、『確実にこいつもあれ嫌いだろう』と思えるような奴となら、文化や芸術作品に対する悪口を言ってもいいと思う。
何だか締まりが悪くなってしまった。
『なぜ文化や芸術作品の批判をSNSでするべきではないのか』に対する自分の意見は以上だ。
ここまで読んでいただき感謝申し上げます。
批判者に対する批判をネット上でしているお前は何?という言葉は無しだ。僕が先に思ったのだから。
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